尿管結石の破砕。この発想は昔の人にも何処かにあったのではないでしょうか。しかし、破砕するのにも技術が必要な訳です。結局、昔の人はそこに石が判ったとしたら、方法として、切ってその石を取り出す意識が先にたったのではないでしょうか。そこには、手術をして具体的に石を取り出すという達成感もあったのではないでしょうか。
破砕とはそれとは相反する方法です。石を粉々に砕いて尿のようにしてしまおうとする発想である訳ですから。そこには石を取り出し、具体的にそれを見るという達成感、満足感は存在しません。たまには何の手術もなく、石がころんと尿から出るというケースもあるようなのですが、そういう人がいつまでも苦しめられた石を大切に所持しているというのもどこか理解出来る話しなのではないでしょうか。石が粉砕されて私達の痛みがそこに解消されたとしても、実際私達が苦しんでいたのは、石のせいなのか、何か違う理由によってなのか手術受けている張本人は何も判らずことが進んで行ってしまいます。
結石を大切にいつまでも所持している。この現象はどこかグロテスクなのですが、大体、その結石というものを見た瞬間、張本人はグロテスクというよりも神秘性を感じてしまうのではないでしょうか。私達は河原などで石などいつも目の当たりにしている訳ですが、何一つその石を私達自らが作成した訳でもありません。ずっと石など自分で作ることが出来ないという認識のもとに私達は成長してきたのです。自らが石を作るとはそれは奇跡なのかもしれません。
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